どこにでもいるスキルゼロの万年趣味カメラマンだった凡人パパが、たった2ヶ月で「写真を撮って欲しい!」と言われるようになり、プロカメラマンに「成り上がりやがって…」と皮肉られるようになった話。
こんにちは!
しょーです!
初めましての方もいるかと思いますし、
すでに知っている方もいるかと思いますが、
ここにきてくれた方は、共通して
「カメラ」があると思います。
私自身、カメラが大好きで様々な情報発信を
しておりますが、そもそも
「あなた(しょーさん)って何者?」
ってところですよね。
おそらく私のTwitterで見てくれている人は。
私がどんな人なのかは
多少はわかっていると思いますが、
ちゃんとした自己紹介って
していなかった…
ということで、しょーが何者なのか?
について、この記事では
お話ししたいと思います。
簡単に言うと、タイトル通りで、
どこにでもいる趣味カメラマンでした。
普通の会社員でしたし、
カメラのスキルもゼロ。
挫折も、
無限に繰り返す、
正真正銘のダメカメラマン。
多分あのままだったら、
1万年ぐらい
ただの趣味カメラマンでした。
どこぞで聞いたことがある。
知識0、技能0、人脈0
まさにその代名詞だった私ですが、
今では、写真を撮ることをお願いされたり、
カメラスクールを立ち上げております。
凡人から、プロカメラマン になった、
という感じです。
どうやったのか?
どうやってスキルを磨いたのか?
しかもたった数ヶ月で!?
…
にわかに信じがたいですが、
紛れもない事実です。
結論、私から言えることは、
誰でもプロカメラマンになることが
できます。
絶対できます。
今回は、私がどんな道を辿っていって
今に至ったのか、
私の自己紹介も兼ねて、
包み隠さずお話ししたいと思います。
正直、
恥ずかしいですし
かなり重い話もあります。
ただ、
他の記事は読まなくても
この記事だけは読んで欲しいです。
(他の記事も読んで欲しいですが…)
- カメラのスキルを上達させたい
- プロカメラマン になりたい
- 家族の写真をたくさん残したい
- 思い出を残すことは大切だけど方法がわからない
- しょーさんみたいになりたい
そんなみなさんの悩みが
わたしのこのブログで
解決されることを願っております。
というか、
皆さんの悩みを解決したいがために、
こうして記事を書いております。
少しだけ長いですが、
是非最後まで読み進めて
いただきたいです。
そして最後まで読み進めていったら
あなたもプロカメラマン への道が
開けるかと思います。
ちなみに、
私の夢は
日本中、世界中を渡り歩いて、
世界中の人の写真を撮ることです。
車中泊生活をして、
出会った人たちの写真を撮りまくる
そんな生活をしようと計画中です。
そしてこの記事を読んでいる
あなたの写真も撮りたいです。
その夢を実現する前に、
是非私自身のことについて
知っていただきたいです。
それでは早速、私の経歴について
お話ししていきたいと思います。
どこにでもいる趣味カメラマンだった
改めまして、しょーと申します。
あだ名ですね。
本名は「なおひろ」と申します。
なおひろ、の「なお」が、
お寺のお尚さんの「尚」なので、
しょーになりました。
現在のしょーさんは、
カメラマンやカメラコーチをしながら、
時間に縛られない生活をしております。
家族と好きなだけ過ごし、
大好きなカメラを好きなだけ触り、
多くの人の笑顔を作りながら
日々過ごしております。
それ以前の私は、
毎日仕事に追われて、
家族との時間もそれほど取れない。
ただ過ぎ去るような日々を
過ごしておりました。
そんな私のカメラとの出会いは、
高校生の時ぐらいでしょうか。
世代はもちろんガラケーです。
当時の3.2メガピクセルのケータイに
大感動して満足しておりました。
しかし、やっていたことは、
たくさん撮ることだけでした。
ただの素人カメラマンでした。
そこから話はいきなり
大学時代に飛びますが
それぐらい「普通」のカメラ好きでした。
大学時代には、仲良くなったアメリカ人の友達が
一眼レフを持っていて、それでいろいろな写真を
撮っていたのを見て、
「私もそんな風に撮りたい!」
そう思い、ようやく
安い一眼レフ(APS-Cサイズ)を
購入しました。
しかし、
若いなりに小金はたいて買った一眼レフ。
使いこなせないで終わるなんてこと
したくありませんでしたが、
ムズカシイ…
ウマクトレナイ…
そう、お蔵入りが確定しました。
今思い返すと、本当にもったいないことを
してしまったなと思います。
その後、わけあって米国へ。
勿体ぶらずにいうと、
…ただ語学留学をしたところです。
しかし、
米国では、本当にたくさんのことを
学びました。
中でも、
現地家族のお家に訪問した時に
壁一面に飾ってあった写真を見たことは、
後に大きな影響を与えました。
アメ人家族は
なんであんなに
家族写真を大切にしていて
しかもその写真が素敵なんだろう…
そもそもアメリカの文化に
興味があって、
映画の中でしか見たことがない
現地の人の生活でしたが、
映画の中で見る以上に
家族を大切にしていて、
家族のあるべき姿を追求している。
そんなふうに感じました。
それから、語学の研修も終えて
日本に帰ることになりました。
Gさんとの出会い
米国から帰国後、
無職貯金なし実家暮らしの私でしたが、
渡米前からお付き合いしていた方から
アプローチを受けました。
その方がのちの妻となる方でした。
ちなみに、私は「プロポーズ」を
された側です。
その話は長くなってしまうので、
また別な機会にしようと思いますが、
簡単に言ったら、妻に拾ってもらった男です。
妻は聡明で、グローバルな人だったので、
結婚前に「エンゲージフォト」なるものを
撮りたいとのことで、
写真を撮る運びとなりました。
そこで妻が選んだ人が、
Gさんでした。
(私はお金がなかったので
選択権がありませんでした)
Gさんは、とても大きな体で、
見た目は少し強面
でも話してみると、
とーーーーっても優しくて、
言葉の一つ一つに
重みがある、
プロのカメラマンだ!
という感じの人でした。
(小学生の感想文みたいで
すみません…)
ただ、強面だけど、妻が言うには
相当素敵な写真を撮ってくれる人だと。
ものの1時間ぐらいでしょうか。
あっという間に終わった
公園での撮影会。
怒涛の展開でした。
…何が?
こういうことです。
…言葉にならないものでした。
モブ中のモブである私が
絵の中にいるのもそうですし、
妻も美しく写り、
「こんなに素敵な写真
この人に撮れるんだ…
というか、この人にしか撮れない…」
素直にそう思いました。
すごいですよね。
この写真は、
その後しばらく
家に飾ることになりましたが、
今でも色あせない。
これ、2014年の11月の写真ですが、
もう7年前。
全く色あせない
今でも私に力を与えるものとなってます。
「こんな写真、
私にも撮ってみたい…」
この思考回路は、多少特殊だったかも
しれませんが、
自分にもできるのではないか?
そう思った私は、
お蔵入りしていたカメラを
再び引っ張り出して
写真を撮り始めました。
失敗の連続
時系列的に、
もう察しがつくと思いますが、
当時の結婚したての私は、
忙しいという言い訳で、
写真をやろうと腹に決めたものの、
ほとんど手につけられない状態でした。
たまに撮れたとしても、
「やっぱりGさんのようには
いかないなぁ…」
と、もう直ぐに挫折モード。
まったく
自分は本当にダメだな…と
自分を責めました。
そんなこんなしていた時に、
新婚旅行で
ハワイに行く機会がありました。
そこでも、
妻の提案があり、
「現地のカメラマンさんに
写真をお願いしようよ!」と。
しぶしぶ、英語ができた私なので、
現地のカメラマンを探して、
早速撮ってもらうことになりました。
そうしたところ…
こんな感じでした。
その時の私は、
「こらこら…そこのあなたも
プロカメラマンか…」
と、その写真の美しさに惹かれつつも、
スキルに妬みさえ覚えました。
そんなこともあり、
私としては、
「上手に撮れるようになりたい…」
その思い一心で、
カメラを撮ろうとしました。
同時に心の奥底に出てきたのは
妻に「写真上手だね!」と言われたかった。
そんなこともこっそりと思いながら。
しかし、どうやっても上手くいかない。
暗すぎたり
画質が荒かったり、
構図が悪かったり、
レンズのせいにして、
新しいレンズを
6万円で買ったものの
やはりウマクトレナイ。
しまいには
カメラ自体が
ダメなのでは?と
カメラの性能を言い訳に。
今思えば、
本当にダメなやつだったなと。
またお蔵入りが
確定しました。
しかし、妻は健気でした。
「毎年家族写真は撮りたい」
妻が、なぜあそこまで、
家族写真を撮ることをいとわなかったのか。
その当時は全くわかりませんでした。
突然の転機
毎年のように、
妻の願いもあって撮っていた
家族写真ですが、
突然の転機とともに、
撮れなくなる可能性が出てきました。
それは、
妻の病気でした。
しかも、ほとんど治らないものでした。
暗に、余命宣告もされました。
2017年の頭。
忘れもしません。
なんで私たち家族が。
こんな思いをしなければならないのか。
そう思うことも多々ありました。
実のところ、
その瞬間は、
カメラのことなんて
頭にありませんでした。
もう妻のことと、
家のことで、一気に手一杯に
なってしまいました。
それから、じょじょにじょじょに
妻の病気は、悪化していきました。
妻の表情も日に日にやつれていき、
やがて、入院生活を余儀なくされました。
まるで映画を見ているように、
妻は元気がなくなっていく。
この瞬間は、
映画の中の一部なのでは?
現実ってこんなに皮肉なの?
なんでこんなことになったんだと、
自分を責めました。
そんな鬱々とした日々を送っている中で、
妻がまた言いました。
「調子の良いところで、
家族写真を撮りたい。」
治療費の捻出のため、
お金は本当になかったですが、
再びGさんのところに、
写真を撮りにいきました。
もしかすると、
最後になるかもしれないから…
撮らないことで
後悔はしたくない。
弱った妻を連れていくのは
すこし「怖かった」ですが、
感情を押し殺してスタジオに赴きました。
その時に初めて、
Gさんには、妻の病気が伝わりました。
流石に、あの大きな体のGさんも
あの時は顔を曇らせました。
しかし、すぐに作ったような笑顔を見せて、
Gさんはこう言いました。
「パパさん、カメラ持ってるでしょ?
なんで撮ってあげないの?」
グサっときました。
もちろん撮りたいですよ。
でも、自分は下手くそだから…
Gさんに写真を撮ってもらった妻は、
笑顔いっぱいでした。
まるで魔法がかかったように。
その時に撮った写真は、
一番最後に載せますね。
私は、いまだにこの写真を見ると
ダメなので。
それから、間も無くして再入院した妻。
日に日に表情もなくなっていく。
本当に、どうなるかわからない状態でした。
合併症も患って、苦しい日々が続きました。
3ヶ月の入院生活。
病院のベッドの上での
寝たきり生活を観察していると、
小さな変化も気付いてくるものですね。
ある変化に対して、
とても笑顔になる妻をみつけました。
それは、
担当の看護師さんが変わるたびに、
病室の壁に貼ってある家族写真のことを
聞かれる時でした。
病室の壁には、
看護師さんが撮ってくれた家族の写真や
Gさんに撮ってもらった写真がたくさん。
妻は、その写真を見て話す時だけは、
とても笑顔でした。
「自分から撮ってあげたい…」
ベッドの妻に言いました。
「カメラ、本格的にやろうと思うんだ。
○○さん(妻の名前)の写真を
たくさん撮りたい」
妻はいいました。
「たくさん撮ってね。でも、
○○ちゃん(娘)とか○○さん(友達)とか、
みんな撮ってあげてね」
「わかった」と約束しました。
そんな話をした数週間後。
妻は天国に旅立ちました。
「みんな撮ってあげてね」との言葉を
遺して。
小さな光
その後、妻の葬儀を終えて、
ひと段落ついた頃でした。
心の中に
響いていた言葉が、
表に出てきました。
怒涛の数年間だったところから、
解放された私は、もうとにかく行動したくて
行動したくて、
たまりませんでした。
たぶん、行動して
悲しみを紛らわしたかったんだと思います。
その第一歩が、カメラでした。
「みんなを撮ってあげてね」
この言葉が湧いて出てきて、
そのために行動しようとしました。
Gさんのホームページを読みあさって、
また過去の写真も読みあさって、
とにかく写真を研究しては、
撮りにいきました。
何を被写体にしたら良いかも
わからないままでしたが、
とにかく撮りに行きました。
ある時には、
畑で一夜を明かして、
朝起きた時に撮った写真が
とても素敵だったので
インスタで投稿してみました。
今考えると、
精神がバグってましたよね。
なぜ畑で一夜を明かすのか。
でも本当にしました。
すると、
よくわからない賞をとって、
少しだけバズりました。
この写真です。
自分でも驚きました。
そして、その写真について
評価してくれるかの如く
その写真にアドバイスしてくれる人も
現れました。
そのようなところに
一つの転機を見出して
SNSで写真を載せていった時に、
写真を撮ってもらいたい人が
たくさんいることに気づきました。
「みんな撮ってあげてね」
その言葉が、ことあるごとに
湧いて出てきたので、
その人たちのために
たくさん写真を撮ろうと動き出しました。
妻の言葉もあって、
行動するのに
壁はそれほど感じませんでした。
すると、
「ありがとうございます!
とてもきれいです!」
と言われるようになり、
「私も撮って欲しいです!」と
「また撮って欲しいです!」と。
やがて、
「お金をお支払いしますので、
撮って欲しいです!」と。
なんだかすごいことになってきた。
そう思う日々でした。
カメラの理解が始まった
大きな変化が訪れ始めた時に
私が気づいたことは、
カメラには、ちょっとしたスキルの知識と
実践であることがわかってきました。
そのことに気づき始めてから、
ある時に、カメラに興味がある人に
少しずつ教え始めたら、
なんとその人は、
3ヶ月で自分と同等のスキルを身につけ、
さらにYouTuberになることも
できました。
これには、今でも驚いております。
私自身、カメラを本格的に始めてから
2ヶ月で。
その教えた人も、
3ヶ月でプロのカメラマン並みに
なることができました。
私は、その状況を客観的に捉えた時に、
このスキルは、集中してやれば、
もっと短くして習得できると思い、
カリキュラムを系統立てていって、
新たに出会った初心者カメラマンさんに
教えたところ、
その人も2ヶ月で、
案件がとれる、つまり人からお願いされる
カメラマンになることが
できました。
「多くの人が知らないことだけど、
これは、みんなが幸せになるための
とても大切な方法だ。
それが、カメラにある」
それを知って私は思いました。
「もっといろんな人に教えたい。」
みんなの心にエネルギーを与える
写真を撮りたいし、
撮れるようにさせてあげたい。
そのような思い出活動をし続けたら、
どこにでもいる趣味カメラマンが
数ヶ月でプロカメラマン になり
さらにスクールを立ち上げることまで
できました。
「みんなの写真を撮ってあげてね」
そこから変わっていったと言っても
過言ではありません。
妻には心から感謝しております。
妻の言葉は、私に今でも語りかけます。
それからのこと
ここまで読んでくれた方は
本当にありがとうございます。
少し暗い話もありましたが、
今の私は、もう幸せいっぱいです。
この一つの記事で
私が本当に伝えたいことが
伝わるかはわかりません。
ただ、一つ言えることは、
「写真は、本当に大切です」
ということ。
妻の葬儀に際して、
義理の父(妻のお父さん)から
言われた言葉があります。
「君の愛した人のさいごの写真を、
たくさん撮ってあげなさい。
僕も、娘のさいごの姿を、
君に撮って欲しい」
そこではっきり知りました。
義理の父が、写真の大切さを知っていて、
家族写真を頻繁に撮る人であったこと。
それを妻は知っていて、
そしてそれが温かい思い出だったと。
義理の父の愛を
妻は写真によって受け継いでいました。
今度は、私が受け取りました。
他愛もない写真でも
たくさん撮るべきものだと。
次は、皆さんが
受け取る時です。
写真は誰でも撮れる
ここまでお伝えして、
最後に私からお伝えしたいことは、
「写真はたくさん撮って残して欲しい」
ということです。
写真は、
誰でも上手になることができます。
プロのカメラマンになることもできます。
絶対になれます。
私ほどの経験をしなくても
なれます。
だから、まずはカメラを
どうか捨てずに持ち続けて欲しいです。
その使い方、私でよかったら
いつでも聞いてください。
みなさんがそれでたくさんの人を
笑顔にさせることができるなら、
それで私は幸せですし、
妻の残した言葉も
私は実行できます。
皆さんの笑顔が、
写真によってたくさんあふれますように。
心から祈っております。
自己紹介記事にしては、
だいぶ湿っぽいですが、
どうぞこれからも
しょーさんを
よろしくお願いいたします。
しょー